宝福助物語

宝福助(1748-1821)の略歴

宝福助

宝福助は江戸時代、現在の滋賀県の農家に生まれました。11歳の頃から大阪の呉服屋・なにわ屋へ丁稚奉公に出されましたが、若い頃から真面目な性格だったらしく、仕事の傍らで「自分とは何か」「人間はいかに生きるべきか」などを真剣に考えるようになりました。
また福助は、早朝から窓辺に向かっては書物を読み、夜も皆が寝静まった後に「読み書きそろばん」を覚えるなど、努力を重ね、若くして「手代」に抜擢されました。
 
その後、今まで以上に懸命に仕事に励み、周囲の評価も高まり、名実共に「なにわ屋」の「大番頭」へと出世することになりました。福助の貢献度はとても大きく、おかげで「なにわ屋」は商人の町、大阪でも一、二を争うほどの豪商となりました。「大番頭・宝福助」の噂は大阪中に轟き、他の呉服問屋からも「引き抜き」(今で言うヘッドハンティング)の誘いがかかるほどだったと言います。
 
こうして、亡くなる迄「大阪・なにわ屋」の大番頭として後進の教育にも心血を注いだ宝福助。彼の功績を称える為に、「宝福助」を商売(あきない)の神様として崇め、現在、大阪市中央区常盤町大阪HUビル8Fに「宝福助神社」が建立されました。毎年、宝福助の誕生日である9月25日には「福助像の手をなでると、仕事がテキパキはかどる」「大福帳を触ると金運が開ける」「頭を撫でると頭が良くなる」と信じる多くの商人(あきんど)が同神社を訪れています。

宝福助の師匠とは

石田梅岩 1685-1744 (貞享2年-延享元年)
丹波国桑田郡の農家に生まれる。名は興長、通称は勘平。石門心学の祖。八歳で京都の商家に奉公。二三歳で商家黒柳家に奉公。京都の小栗了雲に師事。 1729年(享保14)四五歳で京都車屋町御池の自宅に講席を開き、心学道話を公開。神儒仏の三教を平易に説いて、町人農民に大きな思想的影響を与えた。「商人の利は武士の禄と同じである」と説き、商行為の正当性を強調。

小判

「真の商人はさきも立ち、われも立つことを思うなり」
われ(当方)が儲かり、さき(相手)が損をするというのは本当の商いではない。
※今で言う「Win-Win」の関係構築を指す。

「倹約と正直があきないの原点」
梅岩は「万物を効果的に用いること」が大切だと述べ、「物事の無駄を省く努力をすれば、すべてに余裕が生まれる」と倹約の大切さを訴えている。さらに、「正しい商売をするには、まず正しい心を持たなければならない」と述べている。この「倹約」と「正直」は梅岩の掲げた心学の中心思想といえる。

用語の説明

大福帳

【番頭】 ばん‐とう
1.商家などの使用人のかしら。営業・経理など、店のすべてを預かる者。
2.警護すること。見張りをすること。また、その役。

【手代】 て‐だい
1.商家で、番頭と丁稚(でつち)との中間に位する使用人。
2.商店で、主人から委任された範囲内で、営業上の代理権をもつ使用人。支配人よりは権限が狭い。
3.江戸時代、郡代・代官・奉行などに属して雑務を扱った下級役人。